1849年10月3日、ジョゼフ・W・ウォーカーはボルティモアのジョゼフ・エヴァンズ・スノッドグラスに緊急の連絡を送った。エドガー・アラン・ポーと名乗る男が、ライアンの第4区投票所にいて、苦しい状態にあり、助けを必要としているという内容だった。メモにあったのは名前と場所、そして救援の要請である。診断は書かれていなかった。

4日後、ポーはワシントン・カレッジ病院で亡くなった。40歳だった。この短い連絡と10月7日の死の間に、文学史上もっともしぶとく残る謎の一つがある。難しいのは、考えられる説明の中から一つを選ぶことだけではない。残されたそれぞれの記述を、どこまで信頼できるか見極める必要がある。

短い時系列と大きな空白

ポーは9月下旬にリッチモンドを出発していた。予定していた旅や実際の移動について、記述は一致していない。ボルティモアのメモは、それ以前の数日を再構成した多くの説明よりも、歴史家に確かな基準点を与える。ウォーカーは作家を知っていたスノッドグラスに連絡し、すぐに対応が必要な状況を伝えた。

スノッドグラスと、ポーの姻戚にあたるヘンリー・ヘリングが病院への搬送を手配した。担当医はジョン・ジョゼフ・モランだった。ポーのいとこニールソンが10月11日にマリア・クレムへ書いた手紙からは、当時の家族の視点もわかる。彼は病院を訪れたが、医師たちは患者がひどく興奮しているため、面会は望ましくないと判断した。その後、彼は死を知らされた。

これらの資料から、医療上の緊急事態と急速な容体悪化が確認できる。しかし、それ以前の旅は大部分が説明されないままだ。時系列の空白は仮説が入り込む余地をつくる。仮説そのものを証拠に変えるわけではない。

確信を強めていった目撃者

ボルティモアのポーの家。
ボルティモアのポーの家。

スノッドグラスは後に、ポーの状態を酒のせいだと説明した。1867年にBeadle’s Monthlyに載せた記事は、乱れた衣服、動作の困難、会話できない状態を描写している。現場の目撃者による回顧だが、事件から18年後に発表され、酩酊が原因だという強い主張を伴っていた。

同じ記事は、遭遇の日を11月1日と記していた。ポーが実際に亡くなった後の日付である。さらに重大なのは、ウォーカーのメモを書き写す際、残された原文では苦しい状態とされていた箇所に、明確な酩酊の記述を加えたことだ。研究者のW・T・バンディは、記述の検討でこの変更を指摘している。

スノッドグラスが禁酒運動に力を注いでいたことは、後年の執筆の目的を理解する手がかりになる。その背景が、彼の現場への立ち会いを否定するわけではない。ただし、観察、記憶された細部、主張に奉仕する解釈を区別する必要がある。ポーを知っていたことと、信頼できる臨床所見を得ていたことは同じではない。

一人の医師、いくつもの記述

モランは、ほかの証言者にはできなかった患者との接触ができた。そのため、1849年11月15日付でクレムに送った手紙は重要だ。しかし歴史家は、1875年の新聞記事と1885年の著書も手にしている。バンディが比較すると、入院日や死亡時刻などの細部に食い違いが見つかった。

ポーがレイノルズという人物を呼んだという有名な話は、モランの記述に由来する。その人物が誰だったのかについて、多くの想像力豊かな答えが生まれた。だが、それより先に問うべきは、報告された場面そのものをどれほど確実に立証できるかだ。変化する医師の記憶を、患者の最期の数時間をそのまま記録した不変の書き起こしとして扱うことはできない。

ポーの最期の言葉を詳しく描いた諸説にも、同じ慎重さが必要だ。残された物語は、時とともに劇的になっていった。暗い物語の作者にぴったり合う一言は、印象深くても、歴史的には不確かなままでありうる。

「phrenitis」は何を教えるのか

ポー博物館は、1849年のボルティモアの死亡者名簿に「phrenitis」と記載されていることに注意を向けている。同時に、転記上の問題も指摘する。ポーの職業が医師となっているのだ。この資料は、記載された情報と誤りの両方を認めたときに役立つ。

フレニティスは、脳の炎症と関連づけられた古い用語である。現代医学で確認されたポーの病因を示すものではない。この記載から特定の感染症を導くことは、記録が立証する範囲を超える。一方、死因に触れた文書がまったく存在しないと断言することも、誤解を招く。

選挙の日が疑いを呼ぶ理由

American Reviewの表紙、1845年2月。
American Reviewの表紙、1845年2月。 · 出典

ポーが見つかったのは、選挙当日の投票所だった。提唱されている説明の一つが「クーピング」である。集団が人を拘束し、何度も投票させる行為で、酒や暴力、着替えが使われる場合もあった。ポー協会が再録する当時の新聞の警告は、この慣行がボルティモアで知られていたことを示している。

これにより、関係する歴史的背景は確認できる。しかし、ポーが拘束された人物だったとは証明できない。異様な服装の話も、信頼性を評価する必要のある証言者を通じて伝わっている。酒に関連する病気、感染症、ほかの医学的説明も、確定した診断ではなく提案にとどまる。可能性を多く並べても、根拠となる証拠がより完全になるわけではない。

事実がわかる前に形づくられた評判

ポーの死から2日後、ルーファス・ウィルモット・グリズウォルドは、ルートヴィヒの名でNew-York Daily Tribuneに死亡記事を発表した。作家の才能を称賛しながら、苦々しく気まぐれな人物として描いていた。改訂版は1849年10月20日の週刊版に掲載された。記事は、ポーに会ったことのない読者に、すでにその人物像を与えていた。

終盤でグリズウォルドは、死の事情を知らないと認めている。その告白と並んで、ポーの気質についての自信に満ちた判断や、小説を作者の性格の表れとして読む解釈があった。死亡記事は、亡くなった作家を想像する道筋を示しながら、自らが報じる出来事は説明せずに残した。

写真提供:Associated Press / Rob Carr。
写真提供:Associated Press / Rob Carr。

残された記録からは、その物語がさらに育っていった過程がわかる。スノッドグラスは後に酒を説明の中心に据え、モランの各記述は最期の時間にますます劇的な細部を加えた。その主張は、具体的な文章、日付、書き手へとたどれる。しかし、ポーの最後の旅と病院での死の間にある空白を埋めた記述はない。残っているのは、未解明の出来事の周囲に確信が積み重なっていった歴史である。

出典: ポー協会:証拠と仮説, W・T・バンディ:モランの記述と当時の書簡, J・E・スノッドグラス:1867年の記述, ポー博物館:死亡記録, グリズウォルド:1849年の死亡記事の再録